知識と知恵って・・・
「知識と知恵って・・・」 広辞苑によると“知識”とは、「ある事項について知っていること。また、その内容」とあります。 同じく広辞苑によると“知恵”とは、「物事の理を悟り、適切に処理する能力」とあります。
“知識”は、確かに大切なものです。 “知識”が無いということは、“知らない”=“無”なのでその状況からは何も生みません。 人間は考えたり、行動する基本となるものが無ければ何も出来ないのです。
“知識”が無いよりは、沢山あった方が良いに決まっています。
しかし、ここで問題があります。 人間は、一度身に付けた知識を手放そうとは、なかなかしないものです。 これは、大変危険なことです。
例えば、約400年前には、日本人は「地球は平坦」だと信じていました。 当時は、そのことが当たり前の知識だった訳です。 しかし、現在、「地球は平坦だ」と信じている人など皆無でしょう! ※世の中に絶対と言うことは無いので、もしかしたら地球が平坦だと信じている人がいるかもしれませんが・・・
このように“知識”が陳腐化するという現象が現在でも日々起きていることを前提にしないと“浦島太郎”になってしまいます。 今では、欲しい知識(情報)がインターネットをはじめ多くのメディアによって提供されています。
だから、そんな時代だからこそ、身に付けた知識(情報)は、いつかは陳腐化することを前提とし、
常に身に付けた知識(情報)に対して疑問を持つことは大切なことだと考えています。
“ドッグイヤー”という比喩があります。これは時代の変化の速さを犬の寿命に喩えたものです。 しかし、現在では、“マウスイヤー”と言っても良いほど時代が激変していきます。 今は、知識(情報)は必要最低限のものを持っていれば十分なように思います。 (必要最低限とは言っても相当な質と量が必要ですが・・・)
考えてみれば、人が生きている間に取り込める知識(情報)には限界があります。 どんなに優秀な人間でも一生のうちで常に“知っていること”より、“知らないこと”の方が多いのです。
“知識”を得るよりも難しくて、大切なのは“知恵”です。 “知恵”=「物事の理を悟り、適切に処理する能力」、つまり、「一を学んで十を知る」と言ったところでしょうか?
この“知恵”の厄介なところは、それを得る為には“経験”が必要ということです。
しかもその“経験”も楽しい経験や面白い経験よりも、辛い経験や苦しい経験をして
はじめて手に入るものであるように考えます。
しかし、“知恵”のすばらしいところは、一度身に付けてしまえば応用が効くことです。 その領域に到達すると常に、「流れに逆らわず、流れを制す」ことが可能になるそうです。 ※その領域を“悟り”と言う人もいますが、僕は未だ、その領域には達していませんので・・・
しかし、比較的簡単に“知恵”を習得する方法があるのです。
その方法は、『年配者って有り難い?』で記すことにします。
|